定点観測の梅、夏は一週間でいいかもしれない

前回の定点観測記事から1カ月以上空いてしまった。梅雨が明けたら真っ青な夏空に映える梅の木を載せよう、なんて思っていたが、梅雨はなかなか明けず、8月に入ってようやく夏になった。長梅雨の最中にはちょっと太陽が恋しかったが、いったん夏になってみるとやはり暑いのはしんどい。華麗なる加齢とともに夏の日差しが年々つらくなっていく。うっかり朝の散歩で強い日光に長時間さらされると、残りの一日はまったく腑抜けになってしまう。日差しの強い日は起きてからすぐ、朝食前に散歩に出てしまうことも考えている。夏が全然来ないのも考え物だが、暑すぎる夏が長く続くのも御免被りたい。もはや、真夏の太陽は一週間でいいかも。ぎらぎらの太陽の下、ああ、一年にはこんな季節もあったな、と一週間ぐらい思い出させてもらった後、何ならすぐに秋に突入してくれても自分は差し支えない。こんなアホなことを考えてしまうのも、夏のせい。 今朝は曇り空で日差しがなく、わりと快適に散歩と定点観測ができた。もちろん前回記事では完熟だった梅の実は一つ残らず落ちて、緑色の葉が茂るばかりの梅の木。小学校は夏休みの日曜日で、木のそばにある綺麗に水が張られたプールには誰もいない。夏休みが始まってからまだ日が浅いけど、あと一週間ちょっとでまた子供たちが小学校に戻ってくる。こんなに短くて、行動も制限された夏休みだけど、子供たちにとっては目一杯楽しいものでありますように。 散歩道の朝顔

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散歩道の清志郎

春のステイホーム期間中は、毎朝の散歩に息子を連れて行っていた。長すぎた春休みの次は短縮版夏休みになり、また息子と歩く日々が戻ってきた。自分は毎日決まったルーチンを繰り返すのが好きな傾向があって、毎朝の散歩道も2パターンぐらいしかなかったのだが、息子はあれこれバリエーションを開発したがった。息子と自分は性格が正反対ではないかと思うぐらい似ていない。自分みたいにならなくて、息子のためには本当に幸いなことだと思っている。いつものルーチンから外れて変化を求められるのが自分は面倒で仕方なかったが、おかげで近所なのに知らなかった場所をいろいろと開拓できた。そのうちの一つが、清志郎である。 上の写真は、4月下旬に清志郎を初めて見つけたときのもので、こちらではまだ桜が満開の時期だった。背景の木々や草の様子もまだ冬という感じ。自動車整備工場の駐車場に放置されている、昭和からタイムスリップしてきたパープルの廃自動車に描かれた、80年代の清志郎と「愛し合ってるかい?」という定番のセリフ。こういうロックンローラーな清志郎も、もちろん好きだけど、今あまり頻繁には聴かない。自分の心の中に住んでいる清志郎は、自分がまだ生まれたか生まれてなかったかの頃、小林和生、破廉ケンチと3人で心臓をかきむしるようなハードフォークをやっていた清志郎。心のバイブルは、当時書いていた日記をそのまま収録したという「十年ゴム消し」。一人称は「オイラ」ではなく「僕」である。リアルタイムではないけど、タイムレス。リアルタイムで最初の記憶にあ…

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Teach Your Children

夏休み中の息子と朝の散歩をしていたら市の防災放送が流れてきて、黙祷の呼びかけがあったのでしばらく立ち止まり、息子と一緒に目をつぶり祈った。今日は2020年8月6日、広島への原爆投下から75年。自分は広島を訪れたことが一度もなく、もちろん息子もなので、今年は原爆の記憶をとどめる場所を実際にこの目で見ようと正月頃には思っていたのだが、広島どころか県外にも出られない現状。今年の世界は、核戦争とは種類の違う、未知の感染症という予想だにしなかった災厄にかかりきりである。しかしこれも、個人レベルを超えて、有無を言わさず世界中を巻き込む大きな流れという点では、戦争と似ている気がする。自分はこの流れの中で正気を失わずにいつまでも真っ直ぐ立っていられるのだろうか。もし、非常時だから、と周りの世界が一人残らず間違った道を突き進んでも、自分は正しいと信じる道を見失わずにいられるだろうか、と黙祷の後もぐるぐる考えながら歩いていた。 歩きながら、CSN&Yの「Teach Your Children」のことも思い出した。歌詞をよく読むと、戦争と平和のことに直接言及している内容ではない。親子の避けがたい断絶と、それをいかにして乗り越えるか。理詰めで話し合って食い違いを「解決」するのではなく、互いに夢を与え合って、言葉では表せない愛情を感じながら、互いの立場を思いやって緩やかにつながっていこう、と優しく諭すような歌。グラハム・ナッシュがこの曲を書くインスピレーションになったという、ダイアン・アーバスという写真家が1962年…

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